こんにちは、大人バレエアカデミー™、バレエトレーニングディレクターの猪野です。

「もっと背中を広く使って」と言われて、背中を丸めたら「そうじゃない」。それならと胸を張ってみても、やはり違うと言われる。
言われたとおりにしようとしているのに、一体何をすればよいのでしょうか。

私も以前、「背中が落ちている」という注意についてブログに書きました。初めて聞いたときに浮かんだのは、背中が身体からぽろっと落ちて、それを探し回る場面です。そのときは結局、背中が反っていることを言われていたと理解したのですが、初めからそう言ってくれれば分かるのに、と感じたものです。

長くバレエをしている人には当たり前の言葉でも、初めて聞く人には分かりません。しかも、日常の言葉としては理解できるので、何となく意味をつかんだつもりになれてしまいます。

「広く」も「引き上げる」も、日本語としては難しくありません。それだけに、動けないと自分の身体の使い方や理解力が悪いように感じてしまいます。でも、言葉を知っていることと、先生が変えてほしい動きが分かることは別です。

そこで「もっと感じて」と言われても、困りますよね。
何を感じればよいか分からないから、方法を知りたいのです。

私は、感覚的な言葉を使うこと自体には問題がないと考えています。よい比喩で急に動きが変わる人もいますし、音楽に合わせて踊るときには、細かな説明より短いイメージのほうが役立つ場面もあります。

ただ、通じなかったときにも同じ言葉を繰り返すのであれば、話は別です。先生の中にある感覚を、生徒が何とか当てるまで続ける。
それでは、レッスンがクイズになってしまいます。

なぜバレエでは、こうした感覚的な言葉が多く使われるのでしょうか。そして、それが分からないことを、生徒のセンスの問題にしてよいのでしょうか。

先生が感じていることは、生徒がすることと同じではない

踊っているときに自分の身体で感じることを、そのまま言葉にすると、感覚的な表現になりやすいです。

例えば、姿勢を直したら頭が上から引っ張られるように感じ、そのイメージを持つと踊りやすくなったとします。それなら「上から引っ張られるように」という言葉は、その人にとって動きを思い出す手がかりになります。

自分がその言葉で上手くいったのだから、生徒にも伝えたい。
その気持ちは分かります。

でも、ここで抜けやすいのが、その感覚が生まれるまでに、その人の身体では何ができていたかということです。

例えば「頭を上から引っ張られるように」と言われた先生は、立つ位置も、腕の置き方も、ある程度分かっていたのかもしれません。そこに一つイメージを加えたら、動きがまとまった。本人には、その言葉が決め手になったように感じられます。

それを初めてバレエを習う人に伝えたら、頭だけを上げようとして顎を上げるかもしれません。身体を高くしようと胸を張る人もいるでしょう。

先生が感じたことを、生徒は自分にできる動きで再現しようとしています。言われたことを無視したのではなく、本人なりに忠実に実行した結果です。

ところが先生から見ると、欲しかった形と違います。「頭を上げるんじゃなくて、引き上げて」と言いたくなるかもしれません。でも、生徒にはその違いがまだ分かりません。

できた人の感覚には、できるまでの手順が全部入っているわけではないのです。

料理で「口の中でほどけるような食感に」と言われれば、目指すものは想像できます。でも、そのために何をどのくらい混ぜ、どんな火加減にするかは別に教わりたいですよね。
完成したものの印象だけで、作り方まで分かる人は限られます。

バレエでも同じで、完成した動きをしたときの感覚と、その動きを作るための練習が混ざっています。

「もっと軽く」と言われて軽く動ける人は、そのために変えられるものをすでに持っています。まだそれを知らない人には、どの動きが重く見えるのか、どこから直すのかを伝えるところから始めるべきでしょう。

先生が持っている身体の経験を、そのまま生徒も持っていると考えると、説明が途中から始まってしまいます。

自分が教わった言葉を、そのまま教えている

感覚的な言葉が受け継がれる背景には、教える人自身の学び方もあります。

子どもの頃から先生の見本を見て、同じ注意を何度も受けて、練習するうちに踊れるようになった。その経験を持つ人が教えると、自分を育ててくれた先生の言葉を使うのは自然です。

その言葉に助けられた記憶があれば、なおさらでしょう。

ただ、長く習う間には、見本を見たこと、別の練習をしたこと、何度も失敗して動きを調整したことも含まれています。最後に分かった瞬間の言葉だけを取り出しても、同じ過程をまだ経験していない人には届かないかもしれません。

私が気になるのは、踊れるようになった経験が、そのまま教え方の根拠になってしまうことです。

「自分はこう教わった」「自分の先生はこの言葉を使っていた」という説明には、その先生への信頼があります。でも、目の前の生徒にその方法が合うかどうかは、別に確かめるしかありません。

先生の見本から動きをつかめる生徒なら、それで進めます。似た身体の使い方をしている生徒も、言葉の意味を理解しやすいでしょう。その人が上手くなれば、教える側は「この言い方で伝わる」と感じます。

では、違う受け取り方をした人はどうなるのでしょうか。

その人に通じなかった理由を考えず、理解が遅い、感覚が悪いと判断してしまえば、言葉を変える理由がなくなります。通じた人の成功は教え方のよさになり、通じなかった人の困りごとは本人の問題になる。
その見方では、説明が足りていないことに気づきにくいです。

踊ってきた経験には価値があります。どんな踊りを目指すのかを知っていることも、教師には必要です。ただ、そこから先には、まだできない人にどんな順序で教えるかという仕事があります。

例えば、見本のとおりに腕を動かせない人がいるなら、腕の通る場所が分からないのか、場所は分かるけれど脚と一緒には動かせないのかを見る。この区別は、自分がきれいに腕を動かせるというだけではできません。

教え方を学ぶ機会がないまま、自分の経験だけを頼りに教えるなら、使える言葉も、自分に通じた言葉が中心になります。

そこで生徒が困っても、「私も何年もかかりましたから」と言って待つだけになってしまう。教師が同じ遠回りをしたことは、生徒にも遠回りをさせてよい理由にはならないでしょう。

短い合図で進むレッスンでは、説明不足が見えにくい

バレエのレッスンでは、音楽に合わせて何人もの生徒が同時に動きます。教師はその間に、一人ひとりへ短く注意を伝えます。

この場面では、感覚的な言葉が便利です。「長く」「もっと上へ」と声をかければ、動きを止めずに伝えられます。毎回詳しい説明を始めたら、音楽も止めなければいけませんし、ほかの生徒も待つことになります。

すでに意味が通じている生徒にとっては、それで十分な場合もあります。練習した動きを思い出す合図として働くからです。

ただ、教師が言葉を短くしたとき、何を省略したのかを知っているのは教師です。生徒も同じ内容を思い浮かべているとは限りません。

クラスには、長く習っている人もいれば、初めてその注意を聞いた人もいます。別の教室で同じ言葉を違う意味で教わってきた人もいるかもしれません。

その全員に向けて「背中を使って」と言えば、返ってくる動きは違います。腕の動かし方を変える人もいれば、背中に強く力を入れる人もいるでしょう。

ここで一人ずつ何をしたかを見ず、全体がそれらしく動いているから進めると、分からなかった人の困りごとは残ります。

生徒も、音楽が流れている途中で「背中を使うとは、どういう意味ですか」と聞き返しにくいですよね。周りの人は動いているので、自分だけ理解できていないように感じます。とりあえず返事をして、見よう見まねで続ける人もいるでしょう。

先生には返事が聞こえ、レッスンも進んでいるので、説明が伝わったように見えます。分からないという反応が返ってこないまま、その言葉がクラスの共通語になっていきます。

これが何年も続くと、本人も言葉には慣れます。「引き上げる」という単語を聞いて驚くことはなくなる。
でも、どうやるかは曖昧なままという状態です。

バレエ歴が長いから、その言葉の意味を理解しているとも限りません。何百回も聞いたことと、一度でも方法を教わって確かめたことには違いがあります。

グループレッスンで長い説明を毎回するのは難しいでしょう。それでも、曲が終わってから一つの動きに戻り、何をしてほしかったかを見せる時間は作れます。全員に関係する注意なら、一度そこで止まったほうが、その後の練習は進めやすくなります。

短い言葉で進めたいのであれば、その短い言葉が通じる準備をしておく。
そこを省いて、分からなかった人だけを置いていかないでほしいのです。

同じ注意が、いつまでも正解になるわけではない

感覚的な注意は、その人の、そのときの動きを変えるために出されます。言葉だけを取り出すと、この条件が落ちます。

例えば「もっと遠くへ」と言われたとします。腕を動かす途中で肘が身体のほうへ戻ってしまう人に、動きを途中で小さくしないでほしいという意味で使われたのかもしれません。

その人には役立っても、すでに腕を遠くへ伸ばそうとして肩まで前へ出している人には、同じ注意が合うとは限りません。

同じクラスで同じ言葉を聞いていても、何を変えるかはその人の状態によります。ほかの生徒への注意を、自分もやればよいと受け取ったら、逆に崩れる場合があります。

だから、感覚的な注意を集めて、一つずつ正しい意味を調べれば解決するとも限りません。「遠くへ」の意味は分かっても、今の自分に必要かどうかが分からなければ、練習に使えないからです。言葉の解説と、自分の動きを見てもらうことは、両方必要です。

また、自分に出された注意であっても、いつまでも同じ強さで守り続ければよいわけではありません。

最初は腕が身体に近すぎたので「遠くへ」と言われた。その結果、必要なところまで動かせるようになったのに、本人はもっと遠くにするほどよいと考え続ける。すると、直ったあとにも同じ方向へ頑張ってしまいます。

先生が次に「肩を動かさないで」と言えば、生徒は、遠くへ伸ばすのか動かさないのか、どちらなのかと混乱するでしょう。

本当は、最初の注意で変えたかったところは変わり、今はやりすぎた部分を調整しています。そこまで説明されていれば矛盾しません。
でも、注意の言葉だけを覚えていると、互いに打ち消し合う命令になります。

「もっと」と言うなら、どこまでなのかも伝えてほしいのです。

感覚語には、方向は入っていても、動かす範囲や終わりの条件が入っていないことがあります。生徒は真面目なので、よいと言われたことをさらに増やそうとする。その結果、先生が求めた動きから離れるなら、努力が足りないのとは反対の問題です。

レッスンノートに「腕を遠くへ」とだけ残すと、あとから読み返しても、そのときの身体の状態は分かりません。「腕を開く途中で肘が戻るので、決めた位置まで動かす」と分かっていれば、注意の使いどころが残ります。

いろいろな先生の言葉を集めて、すべて同時に実行しようとしても上手くいきません。ある場面で役立った注意が、別の場面でも必要とは限らないからです。

教師が伝えたいのは、言葉を一生守ることではないはずです。今の動きの何を変えてほしいのかまで共有すれば、生徒は注意を必要な場面で使えます。

身体を変える言葉と、踊りの印象を伝える言葉

感覚的な表現を考えるとき、もう一つ分けておきたいことがあります。具体的な動きの修正と、踊り全体の印象についての要望です。

例えば「もっと柔らかく」と言われたとします。肘の動きが急に止まるところを直してほしいのかもしれませんし、音楽に対して踊り全体が強すぎるので、表現を変えてほしいのかもしれません。

同じ言葉でも、取り組むことは違います。

前者なら、どこで動きが止まっているかを確認できます。後者なら、先生の見本や音楽を手がかりに、速さや間の取り方をいくつか試してみる余地があります。

踊りの表現を、全部身体の位置だけで説明するのは難しいでしょう。「遠くの人に届けるように」と言われて、視線や腕の動きがまとまる人もいるはずです。そういう言葉には、いくつもの動きを一緒に変えられるよさがあります。

ただ、そのイメージで何が変わったかは、教師が見ているべきです。

たとえば、腕を途中で止めずに動かせるようになったなら、そこはよくなっています。一方で、遠くへ届けようとして上半身まで前へ倒れたなら、その部分は直したい。イメージがよかったから、そこで起きた動きを全部正しいことにはできません。

「今の腕の流れは残して、身体は前へ行きすぎないようにしましょう」と言えば、本人は何を残し、何を直せばよいかが分かります。

反対に、「もっと気持ちを込めて」だけを繰り返すと、生徒は表情を強くしたり、動きを大きくしたりして、先生の反応を探すようになるかもしれません。その人の気持ちが足りないのではなく、先生が求める見え方をまだ共有できていないのです。

気持ちは外から直接見えません。
教師が見ているのは、視線や動くタイミング、身体の動きなどを通して表れたものです。そこで気になったところを具体的に伝えることはできます。

「楽しそうに」と言われて笑顔を作っても、動きが変わらないこともあるでしょう。それなら、表情だけでなく、どの動きにどんな変化をつけたいのかを教える段階です。

芸術だから言葉で説明しきれない部分があることと、説明できる部分まで感覚で済ませることを、一緒にしないでほしいのです。

筋肉の名前を言えば、具体的な指導になるのか

感覚的な言葉が分かりにくいと、解剖学の言葉で説明すればよいと考えたくなるかもしれません。私も身体の構造を踏まえて説明しますし、感覚的な注意を具体化することを重視しています。

ただ、「背中を使って」が「前鋸筋を使って」に変わっただけなら、生徒の困りごとはあまり変わりません。

その筋肉がどこにあるか分かったとしても、自分でどう使えばよいかは別です。筋肉の名前を覚えたことで納得はしても、腕を動かすと前と同じになってしまうかもしれません。

専門用語は正確に使えば説明の助けになりますが、難しい言葉を使ったこと自体が、正しく教えた証明にはなりません。

先生の頭の中で身体の構造が整理されていることと、生徒に何をしてもらうかは、つなげて考える必要があります。

腕を動かすときに肩が上がる人なら、まず、いつ上がり始めるかを確かめる。最初から上がっているのか、途中からなのか、脚を動かしたときだけなのか。それによって、取り組む練習は変わります。

止まっているときは位置を作れるのに、音楽の中では崩れる人に、筋肉の説明を最初から何度もしても、本人が今困っているところには届かないでしょう。すでに分かっている動きを、どんな条件なら使えるかを探すほうが必要です。

逆に、位置の違いそのものが分からない人には、見本や鏡を使って、今と目指す状態の違いを確かめるところから始められます。

解剖学は、こうした判断を支える知識です。何を見て、どう課題を変えるかに使えて、初めて指導に役立ちます。

生徒が説明を聞いて感心したことと、そのあと動けるようになったことは分けて見たいところです。感覚的な言葉に納得しても、筋肉の説明に納得しても、そこで練習が止まってしまえば同じです。

だから、感覚派か理論派かという分け方だけで先生を選ぶのは難しいです。イメージから動きが変わるなら、その方法を使えばよいですし、構造の説明が助けになるなら、それを使えばよい。

使った言葉の種類より、説明を聞いた人が次に何をできるかを見る。
そこまで含めて教え方です。

「はい」という返事のあとを見ているか

では、感覚的な注意が伝わらなかったときに、教師は何をするのか。

例えば、腕を前から横へ開く練習で「背中を広く」と言ったら、生徒が背中を丸めたとします。その場面で先生が直したかったのは、腕を開くときに肩まで後ろへ引いてしまうことだったとしましょう。

まず、「背中を広く」が、背中を丸める動きとして伝わったと分かります。本人にもう一度同じことを強く求めても、丸める動きが増えるだけです。

そこで、どの部分を変えたかったかを伝え、脚の動きを外して腕だけにします。開始位置を確かめ、ゆっくり開いて、肩まで後ろへ引き始めるところを見る。途中までなら違う動きができるなら、その範囲で確かめられます。

これは、誰にでも同じ方法を使うという話ではありません。この例では、腕を開く途中の動きを知りたいので、見るものを減らしています。

そこで先生が求めた動きになったら、「今の動きを、さっきは背中を広くと言いました」とつなげれば、言葉と身体の経験が初めて結びつきます。

ただし、本人はそれを「腕が前にある感じ」と受け取るかもしれません。先生と同じように、背中が広がったとは感じないかもしれない。
それでも、確かめたい動きができているなら、感想までそろえる必要はありません。

先生と同じ動きを目指していても、そこへ動かす前の状態が違えば、変えたときの感じ方も違います。以前は大きく後ろへ引いていた人には、必要な位置が前に感じられるかもしれません。

そこで「広く感じないなら違います」としてしまうと、動きはよくなったのに、本人はまた別の感覚を探し始めます。言葉に身体を合わせるために、できた動きを崩すことになります。

本人が何を感じたかを聞き、それを次に再現する手がかりとして使えばよいのです。感覚の表現まで教師と同じにしなくても、動きは一緒に確認できます。

そのあと、短い脚の動きを加えてみる。するとまた肩が後ろへ行くのであれば、今度は一緒に動かしたときの練習です。腕だけでできたことまで、全部分からなかったことにはしません。

一度できても、次に同じように動けるとは限りません。見本を見ながらならできたのか、声をかけてもらわなくてもできたのかで、練習の進み方は違います。先生が「そう、それ」と言った一回で終えず、本人がもう一度試し、何をしたら戻れたかまで確かめたいところです。

反対に、腕だけでも違いをつかめていなければ、もっと前の説明に戻ります。見本が見えにくいのか、どこを動かすのかを取り違えているのかを確かめます。

「はい」と返事をしただけでは、この違いは分かりません。
生徒が実際に何をしたかを見て、教師が次の課題を変えていく。そのやり取りがあるなら、感覚的な言葉は練習の助けになります。

「考えすぎ」と言う前に、何を考えているか

大人からバレエを始めた人には、こうした確認が特に必要だと感じます。長年バレエをしてきた人と、言葉に結びついている経験が違うからです。

大人は何も知らないわけではありません。むしろ、日常生活やほかの運動で使ってきた身体の経験があります。だから、新しい言葉も、その経験を使って理解しようとします。

「お腹を使って」と言われたら、知っている腹筋運動を思い出す人もいるでしょう。「胸を開いて」なら、普段の姿勢をよくするときと同じように胸を張るかもしれません。

それが先生の求めた動きと違ったとしても、その人にはそう受け取った理由があります。

その理由を聞かずに「大人は頭で考えすぎる」と言ってしまうと、教師は説明のすれ違いを見つけられません。

いくつものことを考えすぎて動けなくなっているなら、注意を減らしたり、まず一つだけ試してもらったりすればよいでしょう。でも、何をすればよいか分からず、言葉の意味を考えている人に「考えないで」と言っても、何をするのかは分からないままです。

「力を抜いてと言われたので、腕を支えるのをやめました」と説明されたら、どこが違って伝わったかが分かります。先生は全身の力をなくしてほしかったのではなく、ある部分の余計な力を減らしてほしかったのかもしれません。

そうであれば、最初からどこについて話しているかを伝え直せます。

生徒が考えた内容を聞くことは、難しい理論を長々と話し合うことではありません。「今、何を変えようとしましたか」と確かめるだけでも、説明を直す材料になります。

それに、大人の生徒は、理解できなくても返事をしてしまいやすい場面があります。クラスを止めたくない、今さらこんなことを聞いてよいか分からない、周りの人は分かっているように見える。そうした遠慮があれば、質問は出てきません。

何度も聞いた言葉ほど、聞きにくくなることもあるでしょう。「引き上げるって何ですか」と今聞いたら、これまで何をしていたのかと思われるかもしれない。そう感じて、また分かったふりをしてしまう人もいるはずです。

だから、質問がないことを、全員に通じている証拠にしないほうがよいです。

教師から動きを確認し、違っていれば説明し直す。最初の説明が伝わっていなかったとしても、そこで修正できれば練習は続けられます。聞き返した人が恥をかくような対応をしなければ、ほかの生徒も分からないことを確かめやすくなります。

言葉の伝統を残すなら、教える手順も残してほしい

感覚的な言葉には、バレエを踊ってきた人たちの経験が含まれています。そのすべてを捨てて、機械の操作のような説明に変えたいわけではありません。

短い言葉で踊りが変わる面白さもありますし、自分では思いつかなかったイメージによって、それまでできなかった動きが出る場合もあるでしょう。

ただ、同じ言葉を次の世代へ伝えるなら、その言葉が誰に、どんな場面で役立ったのかまで考えてほしいのです。

ある先生の「もっと上へ」で生徒がよくなったとして、別の先生がその言葉だけを真似しても、同じ指導になるとは限りません。最初の先生は、その前に立ち方を直し、本人が気づいていない動きを何度も確かめていたのかもしれません。

外から目につくのは、最後の一言です。
でも、その一言が通じるまでに行った指導のほうが、初めて教える人には必要な情報かもしれません。

教師同士で学ぶときも、「どんな言葉を使っていますか」だけでは足りません。何を見てその注意を選んだのか、生徒は実際に何をしたのか、通じなかった人にはどう変えたのか。そうした具体的な場面を共有したいところです。

「私はこのイメージで分かりました」という経験談は参考になります。ただ、それを全員に当てはまる説明として扱わず、ほかの人にはどう伝わるかを試す。その積み重ねがあれば、自分の身体だけを根拠に教えずに済みます。

経験のある先生でも、最初の言葉が通じないことはあるでしょう。そこで必要なのは、先生の言葉が正しかったと証明することではなく、相手が練習できるところまで説明を直すことです。

生徒ができなかった場面は、そのための材料になります。何を取り違えたのかが分かれば、次から先に説明できます。同じところで困る人がいるなら、そこを教える練習を用意できます。

通じた例だけを集めていれば、言葉はいつまでも万能に見えます。
通じなかった例まで扱うから、教え方が増えていきます。

私は、感覚的な言葉が通じなかったことより、その後に教え方が変わらないことを問題にしています。生徒が意味を尋ねるたびに「感じてください」で終わるなら、その人が理解できる説明はまだされていません。

今、意味が分からない注意を受け続けているなら、「その言葉で、今の私のどこを変えたいですか」と先生に確かめてみてください。自分がどう受け取って動いたかも伝えれば、すれ違っているところが見つかるかもしれません。

教師には、その質問を面倒だと感じずに受け止めてほしいのです。「もっと引き上げて」で伝わらなかったなら、同じことをもう一度言う前に、その人が今何をしているかを見る。使う言葉も練習も、そこから考え直せます。

感覚的な言葉を使うなら、それで分からなかった人にも教えられるようにしておく。
生徒に感覚を求める以上、教師も伝える方法を学び続けるべきです。

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